しるべ

名言や格言を、関連する本等とともに紹介します。 …なるべく1月1言以上更新。
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青木 功

「人間、課題がなくなったら死ぬときですよ」

青木 功


青木功ゴルフ自伝 最新ゴルフチューンナップ大百科 - 青木功流クラブフィッティングの極意


人間死ぬまで勉強…。
というか、これでいいと思った時に成長が止まるんでしょうね。


関連:青木功オフィシャルホームページ

青木功 (あおき いさお ) 1942~

青木功は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。日本プロゴルフツアー終身シード保持者。

# アメリカなどの英語圏では、「アイセイオー・エイオーキ」、「アイザオ・エオーキ」などと発音されていたが、'80年の全米オープンでの活躍以後は「イサァオ・アオーキィ」と、日本語読みに近い発音で呼ばれるようになる。
# 米国レギュラーツアー時代は、長いパットを次々と放り込む姿や、難しいバンカーからの絶妙な寄せ技などから「東洋の魔術師(オリエンタル・マジシャン)」と呼ばれた。
# 1978年の「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝後は「世界の青木」と呼ばれるようになったが、これは好敵手・ジャック・ニクラスが「(アオキの)100Y以内の小技は世界一だ」と語ったことが由来とされている。但し、青木自身は「青木功は青木功。何も変っちゃいないんだ」と、急に「世界の」という冠を付けて語られ始めたことに、当初は戸惑いを表明していた。

Wikipediaより



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テッド ウィリアムズ

「最後まで4割が打てなければ、4割打者に値しませんよ。明日は何としても出ます」

テッド ウィリアムス

テッド・ウイリアムズのバッティングの科学 大打者の栄光と生活 - テッド・ウィリアムズ自伝


こう言ってシーズン最後のダブルヘッダーに臨んだウィリアムスは8打数6安打して、打率を試合前の.3995から.406に上げたという…。その2試合を休めば記録上4割が確定するのに敢えて出場して結果を出すのですから、やっぱり何かを持ってる人は違いますね。
ウィリアムズはレッドソックスの選手としてファンウェイパークで活躍した人、その同じ球場で今松坂が活躍してると思うと感慨を感じますね。松坂が球場に感動したのもわかる気がします。
日本ももっと球場やその伝統を大切にすれば、また違った野球の楽しみ方が出来ると思いますが…。



テッド・ウィリアムズ (Theodore Samuel "Ted" Williams) 1918~2002

アメリカ・メジャーリーグ、ボストン・レッドソックスで活躍した元野球選手。カリフォルニア州サンディエゴ生まれ。 打撃に関してはメジャー史上最強レベルといわれており、打撃の神様と呼ばれている。 三冠王に2回輝いており、メジャーリーグではロジャース・ホーンスビーとウィリアムズのみである。 第二次世界大戦と朝鮮戦争による2度の従軍中は出場することが出来なかったが1960年に引退するまで強打でチームを引っ張り、今も521本塁打、通算打率.344は古巣レッドソックスの球団記録として残っており、通算OPS1.116はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位、通算出塁率.482は歴代最高の数字である。1966年には野球殿堂入りも当然果たしており、自身の背番号9はレッドソックスで永久欠番となっている。
Wikipedia」より


 

Ted Williams

Williams was a two-time American League Most Valuable Player (MVP) winner, led the league in batting six times, and won the Triple Crown twice. He had a career batting average of .344, with 521 home runs, and was inducted into the Baseball Hall of Fame in 1966. He is the last player in Major League Baseball to bat over .400 in a single season (.406 in 1941). Williams holds the highest career batting average of anyone with 500 or more homeruns.
Wikipedia(en)」より


衣笠 祥雄

「お前がユニフォームを脱ぐなら、俺も辞めるぞ」

衣笠 祥雄

衣笠祥雄 - フルスイングにかけたロマン スローカーブを、もう一球

有名な「江夏の21球」の中でのエピソード。 この時衣笠が言った言葉には諸説あるようだ。 ただ、何を言ったにしてもその一言によって江夏は勝負に集中でき、その結果日本一を達成できたと言えそうだ。 それにしても、この時の投手江夏豊を始め、一塁の衣笠、監督の古葉竹識、相手(近鉄)の監督の西本幸雄、相手三塁コーチに仰木彬と、まさに役者が揃ったという感じで、このようなドラマも生まれるべくして生まれたのかもしれない。


衣笠 祥雄 (きぬがさ さちお) 1947~

"ケガにも屈せず闘い抜いた、鉄人衣笠" 1964年、広島カープ入団。4年目にして一塁のレギュラーポジションを獲得、以後1970年秋から連続試合出場記録をスタートする。厳しいコーナーを責められ161回もの最多死球を受けながらケガを押しての出場も度々、連続試合出場の記録更新を重ね、1987年にはルー・ゲーリックのもつ世界記録を抜いた。この直後、球界2人目の国民栄誉賞を受賞し、記念すべき年となった10月、2215試合出場記録を最後に引退した。
日本プロ野球名球会」より


 

衣笠 祥雄

# 1979年8月9日の巨人戦、西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。しかし翌日の試合にも代打で出場し、江川卓のボールにフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。 # チームメイトだった江夏豊とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた。江夏が日本ハムファイターズに移籍した1980年オフのキャンプでは、酒が入ると「豊がいない」と泣いていたという。
Wikipedia」より


円城寺 満

「ボールだ、ボールだ」

円城寺 満

勝負師語録

前回のスタンカ氏のエピソードの時に球審を務めていた円城寺氏。
この一言は円城寺氏が病床で死の間際に言った言葉だという。これを聞いた夫人は、先のスタンカ氏の一球を指しているのではないかと思ったとの事だ。
今となってはこの一球がどんな球だったか見る事はできないが、ただ選手も審判もプライドを賭けているからこそこういったエピソードが生まれるのだと思う。
最近のプロ野球では誤審が問題になることが多くなった気がするが、誤審を減らすようなシステムを導入するのもいいが審判の方々も是非プライドを持って頑張って欲しい。
特に抗議で判定が覆るのは興ざめなので…。


関連:スタンカ


 

円城寺満 (えんじょうじ みつる) 1910~1983

1910年生まれ。法政大学出身。 終戦後、再開されたプロ野球の東西対抗戦に審判員として初登場。翌1946年に日本野球連盟に入局し審判員として活動するが1950年の2リーグ制移行後はセントラル・リーグに転籍。1955年の東西二部制以降後は関東勤務の審判員となり1967年までつとめた。
審判員としてオールスターゲームや日本シリーズにも出場。中でも1961年の日本シリーズ第4戦9回表における“ボール判定”は球史に残る大事件として周知されている。

Wikipedia」より



ジョー スタンカ

「円城寺 あれがボールか 秋の空」

ジョー スタンカ

豪球列伝 - プロ野球不滅のヒーローたち

実際はこの言葉はスタンカ本人が言ったわけではないが、スタンカなくしてこの言葉は生まれなかったという事で。
この言葉が生まれた背景は下のWikipediaからの引用に譲るが、一球にかける男の想いが表れていると想う。
さて、ではこの時の球審の円城寺氏はというと…。


関連:野村克也


 

ジョー・スタンカ (Joe Donald Stanka) 1931~

# 1961年の日本シリーズ第4戦で、1点リードの9回裏に杉浦忠をリリーフして登板。2死までこぎ着けたが、その後一塁の寺田陽介がフライを落球、三塁の小池兼司がゴロをファンブルするというエラーが重なり、満塁となる。ここで打席に入った宮本敏雄をカウント2-1と追いつめ、自信を持って投げ込んだ投球を円城寺満球審は「ボール」と判定。(受けていた野村克也によると、セリーグの審判である円城寺がスタンカの投球を見慣れていなかったことと、自分が「終わった」と思って少し早めに腰を浮かせたことがその原因ではないかという)
# スタンカは円城寺に詰め寄って抗議したが判定は変わらず、次の投球を宮本に痛打されてサヨナラ負けを喫する。このとき、スタンカはバックアップに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた。この敗戦が影響して南海は日本シリーズに敗れる。やがてその試合を見ていた商社マンが「円城寺 あれがボールか 秋の空」という川柳を色紙に認め、実業家に転身していたスタンカに贈った。その色紙は後年になってもスタンカの事務所に飾られていたという。

Wikipedia」より



長嶋 茂雄
「打球に執念がこもっている場合は、たとえ凡打でも石っころをはじくくらいの勢いというものがある」長嶋茂雄

豪打列伝 豪打列伝
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上掲「豪打列伝」より。
他の長嶋氏の発言の中にも、この「執念」という単語がよく使われている。
長嶋氏を天才たらしめているのは、誰よりも強い「執念」をもっていたからではないか。


 

長嶋 茂雄 (ながしま しげお)1936~

燃える男、ミスタープロ野球、ミスタージャイアンツ、チャンスに強いバッティング(天覧試合サヨナラホームラン他)さわやかなイメージで日本プロ野球史上最高の人気を博した。
立教時代、神宮で当時としては大記録の8ホームランを放ちゴールデンルーキーとして巨人に入団、デビュー戦VS金田に4連続三振を帰したが、徐々に力をだし新人王、ホームラン王、打点王を獲得。近代野球の旗手といわれ、スター街道をあゆみ17年間の現役中にリーグ優勝13回、日本一10回に輝いた。

日本プロ野球名球会」より



双葉山 定次
「イマダモッケイタリエズ」




双葉山定次 - 相撲求道録
双葉山定次 - 相撲求道録

昭和大相撲騒動記 天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年
昭和大相撲騒動記 天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年



モッケイとは木鷄の事、闘鶏における最強の状態は木彫りの鶏のように全く動じない、という事から。

完璧な人間になどなれないと分かっていても完璧を求める…人生とはそういうものか。



 


双葉山定次
(ふたばやま さだじ) 1912~1968


少年時代の負傷が元で右目が半失明状態(5歳の時吹矢が右目に当たったらしいが本人は覚えていないらしい)だったことや、右手の小指が不自由(事故で2度も右手の小指に重傷を負いその後遺症による)、などのハンデを抱えながら、「木鷄」(もっけい=『荘子』にでてくる鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであるさま)を目標に相撲道に精進し、昭和屈指の大力士となった。

「Wikipedia」より





西本幸雄


「写真ではセーフでも、みんながアウトと言えばアウトなんだ」
西本幸雄




パ・リーグを生きた男 悲運の闘将・西本幸雄




昭和44年の日本シリーズで起こった「岡村退場事件」でのエピソード。


時に真実を曲げてでも、上司は部下の側に立たねばならない、という事か…。


  

 



西本幸雄
(にしもと ゆきお) 大正9年~


20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず「悲運の名将」と言われた(ただし西本は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「選手が頑張ってくれたおかげで8度も日本シリーズに出場できたのだから、私は幸せ者だ」と言っている)。3つのチームを優勝に導いた監督は2006年現在、西本と三原脩のみ。1リーグ・セ・パから1チームずつの三原に対し、西本はすべてパリーグであり、現役時代も含めパリーグ一筋の野球人生であった。

「Wikipedia」より



小出義雄

「他人を超えるには、自分独自のやり方、考え方を実行しなければならない。」     小出義雄


君ならできる 本当の生きる力をつける本 高橋尚子 金メダルへの絆 へこたれるもんかい マラソンでたらめ理論



      他人と一緒じゃ存在価値もあまりないし…
      最近Qちゃん走ってんの?

    

小出義雄  1945年~
陸上競技の元選手でマラソン・中長距離選手の指導者。 千葉県佐倉市出身。 順天堂大学陸上部員として箱根駅伝に3年連続出場(1年時の第38回は5区区間10位、2年時の第39回は8区区間3位、3年時の第40回は8区区間5位)。その後、千葉県立長生高等学校、千葉県立佐倉高等学校、船橋市立船橋高等学校の教師を経て、1988年、リクルート・ランニングクラブ監督。1997年、積水化学工業女子陸上競技部監督。有森裕子、鈴木博美、高橋尚子らをメダル獲得に導いた。 2001年6月に佐倉アスリート倶楽部を設立、代表取締役 兼 現場監督として高橋尚子、千葉真子ら所属選手の指導にあたる。「Wikipedia」より






野村克也

「まず、自分はスランプになる価値がある人間だったと喜びたまえ。」
    野村克也


野村ノート 新・敵は我に在り―生涯現役宣言 野村克也と極秘の兵法―野村ID野球から学ぶ経営の英知と人が生きるための知恵 野村克也 全つぶやき 女房はドーベルマン



      スランプは、才能ある人間の悩みってことか。
      野村が監督になって楽天がどうなるか楽しみだ。

    

野村 克也  1935年~
京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身。昭和中・後期のプロ野球選手(捕手)、昭和後期・平成期のプロ野球監督。愛称は「ノムさん」、「ムース」。血液型はB。妻はタレントの野村沙知代。息子にプロ野球選手の野村克則がいる。通算試合出場数は歴代1位、通算安打数および通算本塁打数は歴代2位など、球史に名を残す大選手である。監督としても、リーグ優勝5回、日本一3回の実績を残している。選手・監督時代を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。 「Wikipedi」より








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